明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回は東京2020オリンピックにおいてハンドボール日本代表のキャプテンを務め、現在はジークスター東京でプレーする土井レミイ杏利選手が登場。ハンドボールを始めたきっかけや学生時代、フランス留学での経験、日本代表で感じた思いから、TikTokでの人気、今後の目標まで話を聞いた。その話からは食生活にまで一貫する哲学があった。

■ハンドボールをはじめたきっかけ

――小学生3年生の時、お兄さんと妹さんが所属していたハンドボールの練習に参加したことがきっかけでした。

 もともとドッジボールっ子で、ボールを投げることが好きでした。ですが、ドッジボールは人に当てる競技である一方、ハンドボールは逆に人に当てないように投げてゴールを決めなければいけません。そこに大きな違いがありました。

 ボールを投げることに関しては得意でも、初めて試合形式の練習に参加した時、1点も取れなかったんです。それがすごい悔しくて。でも、ボールをたくさん投げられるのが楽しくて、その後2〜3回目の試合形式の練習で初めて点を取った時のことはよく覚えています。涙目になりながら喜んでいました。

――当時は週に1回しか練習がなく、進学した中学校もハンドボール部は同好会のような存在だったと。練習したくてもできないもどかしさはありましたか。

 やっぱり毎日やりたかったです。でもそのぶん、逆にハンドボールに対する思いは強まった気がします。当時、もし毎日厳しく練習をさせられていたら、もしかしたら嫌いになったかもしれないですし。そうではない環境だったからこそ、のめり込めたのかもしれません。
 ■どんどんとレベルの高い環境へ

――高校は名門・浦和学院高校に進まれました。この頃から「オリンピック出場」という目標を掲げていたのでしょうか。

「オリンピック出場」というのは、小学校の卒業文集で書いた目標でした。浦和学院は関東圏内の強豪で、毎日がめちゃくちゃ楽しかったです。初めて同級生にハンドボーラーいるなんて中学ではいなかったので、その時点ですごく楽しい。練習は厳しくなりましたし、上下関係も出てきましたが、とにかく楽しかったですね。

――浦和学院での経験がその後活かされていると感じることはありますか。

 今、こうしてハンドボールの活動ができているのは、高校時代の働きかけが大きかったと思います。高校時代って、みんな遊びたい時期。でも、僕はその時間をどう過ごすかですごく差ができるって分かっていたので全力でハンドボールにのめり込んで、夢中になって、それで3年間過ごした結果、ハンドボール日本最高峰の大学に入れました。それが今の自分に至っているので、高校時代の意識はすごく大事だったと感じています。

――高校卒業後は日本体育大学に進まれました。どんどんレベルの高いステージへ進んでいかれます。

 高校も大学も推薦で進学していて、どんどんレベルが高いところに行くことを求めていました。新しい環境で最初から通用する部分もあれば、もちろん未熟な部分もたくさんありました。

 でも、何が通用して何が通用しないのかをしっかり確認するには、自分より上のレベルに行かないとわかりません。最初からすべてが通用してしまうような環境に身を置いてもしょうがない。成長するためには、自分より上のレベルに身を置くというのは絶対的に必要なことだと思います。

――成長を実感できる充実した日々でしたが、大学4年時に膝をけがしてしまいます。

 4年生のときに膝の皿の裏にある軟骨を損傷しました。ずっとけがの状態のまま戦っていて、最後は両膝をテーピングでグルグル巻きにしてやっていました。その時は、思うようなプレーはできなくなっていたのですが、ディフェンスなどはやらせてもらっていました。チームの中で自分の役割を全うするということだけを考えていました。

――ここで一度、ハンドボールを辞めることを決断されます。

 簡単なことではなかったです。でも、ハンドボールが好きだからこそ、中途半端に続けたくはなかった。きっぱり辞めるという決断に未練はありませんでした。
 ■フランス留学で訪れた大きな転機

――そしてハンドボールから離れて、フランスへ語学留学に行かれます。

 ハンドボールを辞めるとなって将来にむけた自己分析をした結果、ハンドボール以外は何もできないなと。そんな状態で就職活動をしたくなかったので、ある程度アピールポイントが必要だと考えました。

 フランス語を少し話せたので、フランスに1年行って、そのあと英語圏に行って、それで帰国して3カ国語ぐらい話せれば、就職先の可能性が広がるだろうと考えて、まずはフランスに行きました。

――そのフランス留学中、膝の痛みが消えました。

 ものすごく嬉しかったです。ハンドボールを辞めてから半年ほど経った時期でした。

――そして留学先だったフランスのシャンベリのチームへ入団されます。

 留学先にシャンベリを選んだのは、フランス代表で世界的に有名なハンドボーラーがおり、日本の実業団でもプレーしたステファン・ストックランの出身地だったからです。シャンベリにあるシャンベリ・サヴォワ・ハンドボールというチームは、ハンドボール人気が高く、フランスの中でもチャンピオンズリーグの常連のような強豪チーム。平日は勉強して週末に試合が見られたらいいなという感じで選びました。そうしたら膝が治った。プロチームには下部組織がたくさんあるので、どのカテゴリでもいいのでプレーさせてください、と直談判しに行きました。

――入団したチームはどのカテゴリだったのでしょうか?

 トップチームのひとつ下、フランスリーグでいうと3部リーグ所属のチームに入りました。フランスで18〜22歳のエリートが集まるBチームのような位置づけです。フランスリーグ3部は日本のトップリーグと同じぐらいのレベル。自分も大学時代に日本の実業団チームからお声掛け頂くレベルではあったので、通用するレベルではあったかと思います。でも、一度引退を決断した身だったので、その時はトップを目指す気持ちもなく、趣味程度にまたハンドボールができればいいと思っていました。

――そんなご自身の気持ちとは裏腹に、トップへと駆け上がっていきます。

 フランスリーグで試合に出るには、ライセンスなどの手続きがあるので、試合出場が難しいことはわかっていました。なので、練習だけ参加できればいいという気持ちだったんです。1年経ったら英語圏に行くというプランは変えていなくて、チーム内でローカルなフランス語を学べるくらいの気持ちでしたね。またハンドボールができる喜びとともにノープレッシャーで楽しくやれていました。

 それで毎日練習に参加していたら、監督の方から「試合に出てくれ」とお願いされて。もうシーズンの半分ぐらい過ぎていたのですが、そこから試合ですごく活躍できて有名になっていくうちにトップチームからプロ契約の話がきました。想像していなかったので驚きましたが、プロになるチャンスなんだから挑戦しようと決めました。
 ■ハンドボールの本場・フランスで感じた楽しみと苦しみと

――フランスでハンドボールは大人気スポーツです。本場では何を感じましたか。

 ハンドボールがずっと楽しいことに変わりはありませんでしたが、環境は日本とは全然違いました。選手たちの本気度、危機感、プロ意識。あとはメンタル面と戦術面ですごく勉強になりました。

――そのなかで手ごたえを感じたことは。

 体力面と技術面に関しては上回っていると感じる部分も少なくなかったです。メンタル面と戦術理解度という点を深めれば、全然通用するという自信はありました。

――一方で、フランスでは人種差別に悩まされたとも。

 僕の場合はアジア人差別でした。言葉で責められることが毎日のようにあって、最初はチームメイト、スタッフ、サポーターからも受けました。それで徐々に悩むようになり、追い込まれ…。でも、自分で切り替えることができて立ち直って溶け込んで。それでまた前に進めたみたいな感じでした。

――切り替えることは簡単なことではないと思います。

 周りを変えることなど無理だなと。であれば、自分から適用していこうという方向に考え直しました。

――「自分で考えて状況を改善していく」ことは土井選手がずっと言ってきたことです。

 そうですね。子どもの頃に親に「教えて」って聞くと、「じゃあ見せてあげるから真似して」って返されるんですね。見て真似をするということは、まず観察力が鍛えられる。そして最初は絶対に失敗する。でも失敗しても教えてくれないから、自分で考えるしかない。自然と僕は幼い頃からトライアンドエラーをやってきて成功に結びつけていたんです。
 ■観察し、失敗し、また観察する。その繰り返しが挑戦であり、成長である。

――失敗から学び、成功するための道筋を見つける習慣を身につけていた。

 すべてにおいてチャレンジすることは、僕の中では当たり前のこと。失敗を怖れる人がいますが、怖いのは別に失敗そのものではないんですよね。失敗した先の「他人からの評価」が怖い。自分の部屋に一人でいて、何かに挑戦して失敗しても何も怖くないじゃないですか。周りに人がいる状況で挑戦すると怖くなる。僕は幼い頃からそんなことを気にせず、“失敗をしなきゃ成功しない”ことを経験してきたので失敗することは全然恥ずかしいことじゃないんです。

――失敗を怖れない、自ら求めていけるのは強みになります。

 失敗も一つの「発見」ですから。観察して試して、失敗してまた観察して…としながら前へ進んでいくのは、もう身についています。そのおかげでおそらく他人より観察力が優れていて、誰かが目の前で何か動きをしてくれたら大体一発で真似できるんです。

 例えば、ダンスが結構得意なんですが、ダンスを教えてもらったことはありません。でも得意なのは、動きを観察して“あ、ここに体重をこのタイミングで乗せているから綺麗に見えるんだな”と、本当に細かいところまで観察できるからだと思います。

――その観察眼はハンドボールをプレーする上でも間違いなく役立ちます。

 観察をどこに向けるかというのも大事です。例えば僕は脳を観察することをします。誰でも嫌なタイミングがやってきた時、思わず目をつむりますよね。すると嫌なシーンがすごく流れてくる。それは思い出したくない瞬間であったり、嫌なヤツの言葉だったり。

 それらを全部、成功体験に書き換えていくんです。そして、本気で信じる。すると、脳って勘違いするんです。自分の脳を勘違いさせる成功体験を染み込ませると、次に同様なシーンが訪れた時――例えばシュートを外してしまったのと同じシチュエーションなど――、勝手に成功シーンが頭に残っているので、それを行動に移せる。脳の可能性って、本当にすごい。時間はかかりますけど、脳をもっとコントロールしてマインドコントロールできるように、「自分の脳を勘違いさせる」ことはよくやっています。
 ■食生活について

――観察しながらトライアンドエラーを繰り返し、状況を改善していく土井選手の考えは、ハンドボール以外のすべてのことに適用できると思います。例えば食生活でも?

 意識しているのはバランスよく食べることです。もちろん、昔から嫌いなものもありました。でも、その都度挑戦してみる。もしかしたら好きになっているかもしれません。苦手な食材でも一度、口に入れてみるというのは昔からずっとやっています。

――どんな食材が苦手だったのでしょうか?

 以前はトマトやオリーブなど野菜が苦手で、豚肉も好きではなかったです。でも今は全部大好きになりました。今では好き嫌いはほとんどありません。フランスなど海外でもあまり苦労しないです。

――逆に好きな料理や食材はありますか。

日本であればオーソドックスですが焼肉であったり、カレーであったり。フランスではチーズ料理。留学していたシャンベリはチーズが有名な地方だったので、ラクレットやチーズフォンデュを好んで食べていました。苦手だったトマトも今では大好きで、カプレーゼを自分で作って食べています。キノコもすごく好きですよ。

――キノコは最初から好きでしたか?

 はい。お父さんがピザ屋をやっていまして。そのピザのメニューの中に椎茸とハムのピザあるんです。それが好きだったのがきっかけかもしれません。

――特に好きなキノコはありますか?

 幼い頃からあらゆる種類のキノコを食べていました。今も手頃で手に入りやすいエリンギやマイタケ、シイタケをスーパーで買ってよく食べています。たまにアヒージョを作ったり、あとバターと醤油であぶって食べるだけでもおいしいですよね。串焼き屋さんに行ってもキノコを頼んでいます。キノコの天ぷらでも好きですし。また、料理とは少し違うかもしれませんが、トリュフ風味の料理が好みです。

――キノコは低カロリーで栄養価が高く、アスリートにも人気の食材です。

 栄養価でいえば、キノコとブロッコリー、そしてビタミンAの部分でニンジン。この3つを食べていればすべてを補完できると考えています。ブロッコリーとシイタケをごま油で炒めて、ソテーみたいにして食べるだけでめちゃくちゃおいしい。少し塩気が足りなければハムを加えてもいいですし、簡単にできるソテーでもかなり栄養価が高いので好んでよく食べています。

――栄養バランスを学んだりはしているのですか?

 自ら意識して取り組んだことはありませんが、代表活動をしていた時は、栄養士さんが帯同していたりするので、何が大事なのか質問したりしています。考えるベースとして知っておきたいので。

――年齢を重ねることで食事量や意識する栄養素に変化はありましたか?
 
 以前に比べ胃もたれするようになってきたので、脂っこいものが少し食べづらくなってきたかなという感じです。僕は食べないとどんどん痩せていってしまう体質なので、学生時代は毎食ご飯大盛り3杯、1日6000kcalは食べていました。

 ハンドボールはコンタクトスポーツなので、ある程度の身体の大きさ、筋肉、脂肪が必要なので食べて身体を大きくしなければいけません。ポジション的にはそこまで大きくなくてもいいのでまだ助かってはいますが、痩せないように今も頑張って3000〜4000kcalは取るようにしています。代表でも2番目に多く食べていました。でも、その量に胃が耐えられなくなってきた分、よりバランスを意識しています。
 ■再び本気でハンドボールを。そしてTikTokで一躍人気者に

――フランスでは6シーズンを過ごしました。2017年シーズンには『ハンドスターゲーム2017』で外国人国籍選抜チームとして、日本人ハンドボーラー史上初のオールスター出場も果たすなど大活躍しました。フランスで得た経験は大きいのでは?

 もとからポジティブな人間でしたが、フランスでさらに強さが増したのかなと。自分の意見をはっきり言えるようになりましたし、自信を持って生きていくことができるようになりました。それは、ものすごく大きい変化だと思います。

 日本は協調性を大事にする国なので、あまりに発言が過ぎると目立ってしまう。でも自分の考えていることをはっきり言って、目立つ発言になることで他人にいい影響を与えられる可能性がある。人に好影響を与えると判断したら、恥ずかしがらずにはっきり発言する。すると日本という国ではポジティブな影響力を持ちやすい。そういったポジティブさをフランスで鍛えることができたというのは大きいです。

――日本代表へは2016年から選ばれていましたが、東京2020オリンピックではキャプテンとして出場しました。土井選手のキャプテン像とはどのようなものでしょう。

 キャプテンシーといっても人それぞれです。リーダーの形に正解はありません。その時々のチーム、メンバーに合わせて、導いていくやり方を変えていかないといけないとも思います。僕はどちらかと言うと、引っ張るよりも導くタイプ。

 ボートレースに例えると、みんなでボートに乗って漕ぐ際に、一番速く進む方法はみんなが同じタイミングで漕ぐことです。後ろから見ていれば、タイミングがズレてる人がいればわかる。そういう状態の人は、メンタルが不調になって力が出せなくなっている。チームの中でその異変にいち早く気づいて話をして、メンタルの調整をして、チームと同調してまた前に進んでいくようにする。

 このように、チームの一番後ろに立って観察し、軌道修正していくのが僕のリーダー像です。よく「キャプテンがチームを引っ張る」と言いがちですが、引っ張るのはエースがやることであってキャプテンではないのかなと。

――オリンピック前にはTikTokの「レミたん」で大人気になり、一気にハンドボールに対する注目度も高まりました。

 TikTokは最初、友達に誘われて始めました。彼らを笑わせるためだけにしかやってなかったのですが、バズったことがきっかけでTikTokの可能性に気づかされました。フォロワーがハンドボールと全く関係ない人だけで3000人ぐらい増えたんです。でも、だからといって、ハンドボールのことを載せてもみんなに興味を持たれない。

 だから、まずは自分という人間を好きになってもらってから「ハンドボール選手です」と公表すれば、応援してくれるかなと。基本的にハンドボーラーであることはずっと隠していて、それから公表するという作戦でした。

――TikTokでは非常にコミカルな映像が楽しめますが、土井選手の人柄がでているのでしょうか。

 もともとそういう人間です、はい(笑)。人を楽しませることが昔から大好きで、普段はTikTokの映像のままです。それと今まで培ってきた観察力、分析力はTikTokでもすごく活かされました。始めた時にまずは既にバズっている人の映像を見まくって、どうしてバズっているのかを調べました。

 すると、人間が全てやるのではなく、AIが自動でおすすめを選別し載せていることが分かった。ではどういうアルゴリズムでやっているのか、どうしたらおすすめに載りやすいのか。それを知ることが一番重要だと気づいて、分析しまくっていました。
 ■目標としていたオリンピックで待っていた闘い

――そして迎えたオリンピック。重圧は相当なものでした。ポジティブで明るい土井選手が部屋で震えていたと。

自分で自分をかなり追い込んでいた状況でした。TikTokを通してハンドボールを有名にする活動をしながら、認知度が上がれば上がるほど逆に自分の首を絞めている状態になって、一本シュートを外すだけで「TikTokやってないで練習しろ」と言われましたね。僕は基本、努力をしているところ、頑張っている姿はあまり人に見せたくはないので、毎日僕が練習していることも知られていない。だからか、適当に頑張っているという程度の印象になってしまうこともあったと思います。TikTokの内容を見ていると、それはしょうがないことでもあり、分かっていることでもあったのですが、それで結果を残さなければすぐ叩かれてしまう状況を作り出してしまっていました。認知度に比例するようにプレッシャーが乗っかってきて…。いろんなものと闘っていましたね。

――その闘いは、これまでの闘いとはまた別ものでしたか。

そうですね。日本へ帰ってきた時、誰も本気になって日本のハンドボール界を変えようとしている人がいなかったことに衝撃を受けて誰もやらないのであれば自分でやろうと覚悟を決めてやってきました。こういう重圧が待っているのは予想していたし、あとはそれに向き合うのみだったのですが…。でも、それを乗り越えるといつも以上に燃えた状態で試合に臨むことができて、良いメンタルで大会に臨めたと思います。

――結果は1勝4敗でグループリーグ敗退。目標だったオリンピックの舞台へ実際に立った時はどのような感情が訪れましたか?
 
「感謝」の気持ちが最も強かったです。目標とするところ(ベスト8)には届きませんでしたが、ヨーロッパ勢に1勝することができました。決勝トーナメント行けなかったので、あまり注目されていないですが、日本のハンドボールにおいて大きなことは成し遂げられたと思います。最後の試合、3点差で勝てば決勝トーナメントに進出できる本当にギリギリの状況で届かなかった。もちろん悔しくないかと言われたら悔しいですけど、僕は本当にすべてを出し切ったつもりでいるので、一切悔いはないです。■今後の目標

――オリンピックが終わって日本代表から引退されました。

 ずっと前から決めていました。僕は自分の世界をハンドボールだけで捉えていないんです。セカンドキャリアも考えて、自分の人生をしっかりと捉えたい。

 代表選手だと年中休みなくずっとハンドボールをやることになります。仮にパリオリンピックを目指すとして、体力はもちろんありましたし、トップでやっていける自信もあります。でもパリオリンピックで35歳になってしまう。それから代表を引退すると、もうハンドボーラーとしての引退もほぼ同時のタイミングになります。ハンドボールは35歳前後で引退する選手が多くいました。僕はセカンドキャリアを準備する期間がほとんどない状態で、ハンドボールやめたくなかった。だから代表を引退することで空いた時間を使って、ハンドボールの先の人生を今から構築して引退しようと考えました。

――現役時からセカンドキャリアを見据え、行動に移す選手は稀有です。

 それはハンドボールがマイナー競技だからだと思います。例えば、メジャー競技で一生分稼げるような人であれば、今の僕のようなことは考えない。競技のことだけに集中してればいいんです。でも、僕はマイナー競技の選手だったからこそ、視野を広げることができた。誰も日本ハンドボール界を変えようとしていないことに気づき、自分で覚悟を決めて、いろんな人と出会って草の根活動をしてきました。

 その過程で様々な人と出会って、そこに新しい楽しさもありました。そういう世界を見ることができたのは、ハンドボールがマイナー競技だったからです。

――その集客のための一つのアイデアがTikTokだったわけですが、こちらは今後も続けられるのでしょうか。

 僕はずっとやってくつもりでいます。フォロワーが700万いるのですが、アンチがいないんです。みんなが僕の投稿を楽しんでくれますし、コメントをしてくれることが僕も楽しいし嬉しいですし、辞める理由がないです。何事も楽しむという意味では、自分にとってもうひとつの居場所になっています。

――マイナー競技であるがゆえに培われた知見を、これからのキャリアにどう活かされるか、目標を聞かせてください。

 ハンドボールにおいては、今所属しているジークスター東京というチームで日本一を獲ることが最後の大きな目標です。人生においては、まずは引退した先の人生設計をしっかりとしなければいけません。その先にある大きな目標は、大好きな人達と一緒に幸せな日々を過ごすこと。できるだけ時間を作って、その時間を共有できる仲間と世界を見て周りたいです。

 まだ未来ははっきりしていませんが、やりたいことがなくて悩んでいるのではなく、ありすぎて困っています。いろんなところに視野を向けてきた人生で、あらゆることに興味を持って、あらゆることを知りたいタイプなので、どの分野で行こうかと…。ただひとつ言えることは、何をやることになっても楽しく生きていくことに変わりはありません。

――最後に、高みを目指すジュニアアスリートたちにアドバイスをお願いします。

 努力しないことです。もし今取り組んでいるスポーツを辛いと思っているとしたら、その時点であなたに向いていません。本当に夢中になれる対象を見つけてほしいですね。本当に夢中になれば、周りから見れば努力している姿も、本人にとっては楽しみでしかないはずです。そしていずれ必ず失敗することがありますが、その失敗すらもむしろ楽しみ、苦しい時ほど楽しむことができれば、おそらく成功すると思います。
 
©ZEEKSTAR TOKYO

土井 レミイ 杏利
1989年9月28日/千葉県出身
180cm/80kg
浦和学院高校−日本体育大学−シャンベリ・サヴォワ−シャルトルMHB28—大崎電気OSAKI OSOL−ジークスター東京

フランス人の父と日本人の母の間に生まれ、小学3年生の時にハンドボールを始める。全国でも屈指の強豪校である浦和学院高校へ進学し、大学は全国トップの日本体育大学へ。その後、膝の怪我をきっかけに大学卒業と同時に競技を引退。語学留学を目的にフランスへ渡るが、再びハンドボールの世界へ。フランス1部リーグに属するシャンベリ・サヴォワ・ハンドボールのセカンドチームの練習に参加。同チームはわずか数カ月でトップチームへ昇格し、これを機にプロ契約。その後、2019年シーズンまでの6シーズン、フランスで活躍。2019年7月より日本ハンドボールリーグに所属する『大崎電気OSAKI OSOL』にてプロ契約し2年間プレー後、2021年5月に現所属の『ジークスター東京』へ移籍。東京2020大会ではキャプテンを務めた。オリンピック後、現役日本代表を引退。ハンドボール以外では、多彩な才能を発揮し、ダンス・楽器演奏・マインドフルネスなど様々な趣味を持つ。さらに、ショートムービーアプリ『TikTok』では700万人を超えるフォロワーを持ち、TikTokクリエイターとしても注目を集めている。